レビューから見る、作品評価

目論見通りの結果だったかもしれない

何もかも計算づくめで製作された、そう考えるとこの映画はある意味勝利したのかもしれません。内容を肯定的に受け止める人はいずとも、倫理的観点から見て考える犯罪の中でも殺人という悪行がいかに愚かしいことなのか、主張している内容としては最高だ。手記を元にして作られている点では、どうして執筆者である市橋達也の心情が露骨なほどに散りばめられている。ですがそれを全面に出してしまうと当然、批判が殺到することになるのは予想できるはずだ。それこそ公開前となった直後には苦情などの抗議も少なからず存在していただろう、その矛先はもちろんディーン・フジオカも例外ではない。

ディーン・フジオカさん自身の覚悟を知っているかどうかで映画に対する見方も変わってくる。何も知らない状態で見れば何故こんなのを映画にするのかと憤りしか感じなかった人もいるはず、逆にこの話を通じて何かが伝わってきたと感じる人も確かにいた。それは実際映画を視聴してみた結果、レビューとしてもインターネット上で作品評価をしている人たちの意見からも表れています。

実際に投稿されたレビューの内容

とあるサイトで今作品に対する数少ないレビューを参考にしてみると、作品に対する評価は細かく見れば違っていますが、大きく見ると共通している点が並んでいる。まずは作品についてどうだったのか、総合的な評価から見ると、

5 - 1票

3 - 2票

2 - 1票

1 - 3票

このようになっている。最高と評価した人が1人いるだけでも凄いことですが、それはあくまで『映画としての内容を評価しているだけ』であって、犯罪そのものは肯定しないものだ。またその他の評価に関しても同様だが、映画そのものに対する批判も相まって、常々市橋達也被告が引き起こした事件の映画化というのは、良くも悪くも話題性抜群だといえるでしょう。けれどそれらの意見で見えてくるのは、映画の内容に対する浅さと酷評にも繋がっていた。

軽薄すぎる脚本

レビューを投稿した人たちの意見をまとめると、映画自体に対して向けられている感想の多くが『市橋達也がどのようにして逃亡して、その生活で何をしていたのかという点が浅く語られていた』こと、この一点に集中しています。もっとより鮮明に被告の内情を表現して欲しかった、まだ容疑者だった時にどんな思いをしていたのかがわからなかった、そんな意見が殆どとなっている。

この点がマイナスと評価されているようですが、それは仕方のない事だ。何せ手記の中で市橋達也が事件に対して他人事、自分のことのように綴られていないからだ。

薄っぺらいのは当たり前

今作を映画化するにあたってベースとされたのは彼自身が逮捕・勾留・起訴されてから2年以上の時間が経過した時に出版されたもの。事件を既に過去のものとしていながらでも、彼が起こした由々しき犯罪を世へと伝聞させる手段として映像化が取り図られましたが、肝心の内容は作中で記されてはいませんでした。それこそ先述で話したような、自己満足に溢れた内容で数々の疑惑や疑問を払拭するために出版したと言ってもおかしくない。

脚本を担当した人がそこから垣間見える内容を自分なりにアレンジしてみる、という手段を取ろうと思えば出来たかもしれませんが、それでは脚色されてしまって彼が何を考えていたのかが見えてこなくなってしまいます。逆に美化して楽しんでいるのではと言われてしまう可能性が高いため、無難な方向へと舵取りされた。それもまた、この作品の特徴とも言える点かもしれません。

作品そのものの低評価こそ狙いか

市橋達也、その犯罪者の行いが映画となって公開された点は誰もが認められないだろう。それは主演として登板したディーン・フジオカさんも例外ではない、そして製作陣にしてもだ。映画ともなれば例え物議を醸す作品だろうと利益が上がらなければ意味が無い、最低でも予算程度は回収しなければならないのは製作会社の心情のはず。でもこの市橋達也の映画に関して言えば、利益を度外視して作られたものだといっても過言ではないだろう。

逆に言えば批判が起こる事を承知した上で企画し、さらにディーン・フジオカさんも自分のリスクになることを理解した上でオファーを受けている点を考えると、この映画を通して彼のしたことは絶対的に間違っており、彼は同情されるべき存在ではないと主張するために製作された、いわば断罪物語と言えるのではないか。もしそこまで予測した上で製作されたというなら、罵詈雑言ともいえる批判の嵐が巻き起こったことも戦略勝ちだった、そう分析できる。